「レンタルレコード店を始める」
そう決心した翌日、川瀬隆庸社長は会社にあっさりと退職願を提出して、さっそく開店の準備を始めたそうです。
大学を卒業して5年が過ぎた1980(昭和55)年のことです。当時、山口百恵が三浦友和と結婚し芸能界を引退。
イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が人気を集め、テクノポップブームが巻き起こっていました。
その前年にはソニーのポータブルオーディオ「ウォークマン」が発売され、大流行をしており、レコードからカセットテープに録音した音楽をいつでもどこでも聴けるスタイルが定着しつつありました。
その“音源”としてのレンタルレコードがヒットする下地は整っていたといえそうです。
行き当たりばったり
「ところが、手元にある、お金は100万円ほどです。とても準備資金には足りないので、銀行へ相談に行ったんです。メガバンク再編前に『大手6行』といわれたうちの1行です。ちゃんと話も聞いてくれて『面白い。ご用意できそうです』と、おっしゃる。ですから、それから1カ月もたたないうちに場所を借りるための手付けも打ってレコードも確保しました」
「レコードの仕入れなんかはどうしていいかわかりません。大阪の本町にある問屋に行ったら『自分たちが長年、おつきあいしてきたレコード店の商売敵になるところに直接、卸すのは難しい』と言うんです。でも、そこと取り引きのあるレコード店を通じて特別価格でという“裏技”を用意してくれて、まず、ある程度は確保するメドは経ちました。とはいえ“裏技”なので不安ですし、借りることにしたのは4000枚は入るスペースでしたが、資金が足りなくて用意できる見込みが立ったのは1000枚ほど。棚がスカスカになります。とにかく起死回生の方法を求めて行き当たりばったりで大阪市内のレコード店を訪ねて交渉しました」
「業界のことを何もわからない人間が行っても、まともに相手にしてもらえません。でも、都島区にある店へ行ったら話が急展開したんです。その店は京都にあった支店を前年に閉めてレコードの処分に困っていたんです。問屋からの買い取りですから返品できない。だから『京都の店にあるレコードを全部、1年間貸してあげる。店に置いてレンタルされた商品は買ってもらうけど、それ以外はそのまま返品してくれていい』と言ってくれました。レンタルレコードには馴染まないといわれた演歌やクラシックまで入ってましたけど、とにかく嬉しかったです」
「ウソやろ!」まさかの銀行豹変
これで準備は整って、あとは店を改装して商品を運び込めば、めでたく開店です。あとは、お金。川瀬社長は、意気揚々と銀行へ向かいました。
「こっちはもう貸してもらえることは疑いもしてませんでした。ところが、銀行員さんは『審査に通らなかったので、お貸しできません。(レンタルレコード店は)前例がないので…』ですわ。
こっちにしてみたら青天の霹靂。『ウソやろ!』って叫びたい気持ちでした。でも、こっちは店も押さえてますし会社を辞めて、もう後戻りはできません。とはいえ店の敷金として500万円が必要でしたけど、ない袖は振れない。
もう決死の覚悟で不動産屋さんに大家さんの自宅を教えてもらって直談判に行きました」
その交渉の内容とは…。
「1年間、敷金の払い込みを待ってください、ってお願いしたんです。レンタルレコード店のことを説明してね。大家さんっていうのは、おばちゃんだったんですけどね。歳は僕の母親くらいかなぁ。『面白いやないか。わかった。がんばりや』と言ってくれたんです。これで敷金の問題は解決。あとは改装です。見積もりをしてもらったら250万円から300万円…。もちろん出せません。前に勤めていた会社の同僚の親戚に大工さんがいるというので紹介してもらって、店を見てもらったら『70万~80万円で何とかなるやろ』となったので、改装に着手です」
そのとき両親は…
レンタルレコード店として借りたスペースは川瀬社長が暮らしてきた帝塚山エリアで、現在の帝塚山ハウンドカムのビルから北へ2~3分の場所にありました。マンションの1階で、それまでは喫茶店として営業していて、広さは約10坪(約33平方メートル)です。
「店の中央に15人くらいが座れる木製のテーブルが残ってましてね。費用節約のため、大工さんは、このテーブルを解体・再利用してレコードを置くための台や棚を作ってくれました。仕切りは安いベニア板です。結局、50万~60万円で済みました。大阪で確保したり京都から運んできたりしたレコードを搬入して、開店にこぎつけました」
ところで、急に会社を辞めて、当時なじみがなかったレンタルレコードの仕事を始めることに、ご両親は反対しなかったのでしょうか?
「反対しないどころか、『お祝いや』と言って店の看板を贈ってくれました。何よりも、もう会社員時代に大学時代に知り合った女性と結婚してました。彼女も反対しなかった、というか、私が相談もせずに、突っ走ったというか(笑)」
融資が受けられないという試練がありながらも、未知のビジネスに向けて暗中模索を重ね、いよいよ店がオープンすることになりました。両親が贈ってくれた看板に刻まれたのは「回盤堂」の文字。川瀬社長のレンタルレコード業界という未知の大海原に出航する“船”の名前です。